09/05/21

タイタス/ルーマニア

雑感

もうすぐルーマニアです。
なにやら随分と質の高い演劇と観客があふれている
文化的な先進地域みたいです。
半端なものを見せてはならぬと稽古場ではみんな
ぎりぎりの格闘を続けています。

そう、半端なものは絶対に見せられません。
でも一方で僕はルーマニアの人達と違うところを
はっきり見せられればと思ってます。

勝負したら負けるんです。
向こうの土俵ですから。
「四畳半」は独特です、ワールドスタンダードには
なりません・・多分。

「四畳半」は元々、汲汲として縮こまって生きている
僕ら現代人のゆがんだ精神の姿を描き出すものとして始まりました。

それはいまでも変わらないのですが、それ以上に僕は、現代人だけでないもっと昔からの日本人の
美学というか感性みたいなものが圧縮されてると
思うようになってます。

意識的に解凍していけばいくほど、これって独特の美学だよなと思うことがたくさんあります。
あるいは精度を高めようと考えていくと、何らかの日本的な美学に対し意識的になってしまいます。

「四畳半」の動きは毛筆で書をかくことに似ています。
縁が切れずつながっており、太かったり、かすれたり、止めて、はねて、柔らかく、力強く・・・。
ペンで書くアルファベットとは違います。
もちろんタイプライターとも。
ポーズの変化も、矢が放たれる直前の弓の状態です。
パントマイムではありません。
急な動きも木に積もった雪が落ちてしなった枝が戻る
風景です。
ピストルではありません。
止まっている時間も、タイミング取りではないです。
間(ま)です。
床や道具や相手に触れるときも、たとえば襖や障子がそれ以上でもそれ以下でもない力で音もなくスーッ
ピタリと閉まる感じです。
鉄扉のガチャンではありません。
立ち上がりも着物を着たときのように無駄なく煙が
あがっていくように。
落ちる時も落ち葉が落ちるように、石が池に沈む
ように。
相手とのすれすれの動きも、自己を押しつけず関係していく日本的な感覚です。
すり足は言うまでもなく
・・・以下省略。

古めかしい風景ではありません。
僕らが僕らの感性に無自覚なだけです。

たぶん興味深く見てくれるはずです、違うんですから。
向こうの人達と違うそんな感性をちゃんと伝えることが
できたら喜んでもらえるのではないかと思ってます。
敬意は自分たちとは違うものに対して向けられるものです。

アジアの肉体を見せてやれよ。


山本芳郎

09/05/20

タイタス/ルーマニア

崩壊をわが身に

お久しぶりです。
山の手は一昨年の『傾城反魂香』『道成寺』以来の
出演の山田です。

「タイタス・アンドロニカス」では、国家の崩壊が描かれます。
この題材を絵空事として描き他人事として演じるのではなく、わが身のこととして身体で体験し、その身体の様子を通じて観客に現在を炙り出してみせるのが俳優の仕事です。

当たり前のことですが、怠ったり軽く見がちなことです。
当たり前だから簡単に出来るかといえばそうでなく、
なかなかに大変なことです。
何しろ、わが身に全く関係のない危機や試練をわが身に体験させるのですから。

僕の役は05年に引き続きサターナイナス(ローマの
皇帝)です。
現実社会ではなるはずもないローマ皇帝(の状態)に
なって、不格好に国家を背負い、気付かないうちに
自らの周辺に起こる謀略の餌食になり、身に覚えの
ない復讐劇に巻き込まれ、最終的には屈辱にまみれた
状態で死にます。

これらを身体で体験するのです。
普通の身体よりもひときわ鮮やかにこの「身体の
体験していること」が炙り出ることを目的にした四畳半
スタイルで。

自分の身体で「そこに起こること」が体験出来ていないとき、それはすぐ身体に現れます。
そういうときは演出家の指摘や周囲の反応を待つまでもなく、自分で気分が悪いです。
安全圏にいるままなのですから。

反面、ちょっとでも自分の身体で「その人物・その場所・その時間・その感情」を体験できたときは、それが
どんなに身体に負荷がかかったり精神にストレスを
溜めるような場面でも、なんともいえない爽快感が身体に残ります。
さらに体験の濃度が濃いときには、今までにない境地を味わえます。
俳優にとってのささやかな自己記録更新の瞬間です。

昨日の稽古でも一回、その更新のときが訪れました。
幕開けのシーンで自分の身体が皇帝の重圧と恍惚を
味わっている、と感じたのです。
俳優の至福の瞬間です。

その至福のまま、次はタイタスの娘ラヴィニアを妃に
もらうと宣言する皇帝のセリフが来ました。
「タイタス、貴方の家名を高めるため、ラヴィニアをわが娘に!…妻に!…娘に! 娘に!」
何度いっても間違いは間違い。
正解は「ラヴィニアをわが妃として迎え、婚礼の儀を
挙行したい」です。

新記録に身体がついていかずセリフをトチるとは、まだまだ甘いなあ自分。がっかり。

社会にある危機とわが身体の危機、2つの状況をうまく乗りこなし、ルーマニアに乗り込みたいと思います。


山田宏平

09/05/19

タイタス/ルーマニア

感謝!&ファイト!

三村聡です。

稽古場は、若手や研修生達がいつも稽古の進行を
見守っている。

元研修生である新若手のメンバーは、担当だった先輩劇団員が時折演出から激烈なダメ出しをくらったりしていると、神妙な面持ちで目を伏していたり、虚空を凝視していたりすることが多い。
自然とそうなるのだろうか。
痛ましい気持ちになるのか、それとも明日は我が身かと戦慄しているのか。

ともかく他人事でなさそうな様子が興味深い。

そして研修生の人達も連日、妙にかしこまりながら熱心に稽古を見ている。

感情移入して演者と同じ表情になりながら見入って
いたり、かと思えばビー玉みたいな目で前方を見たままフリーズしてたり。

後者の場合、目の前のシーンがつまらないのだろうなとこっそり判断させて貰う。
貴重なモニターとしての役割も担ってくれているのだ。

作業場では、
やはり若手の人達がエンドレス状態の衣装作業を
担ってくれており、
又、若手・研修生共同作業で仮大道具の製作を請け
負ってくれたりもする。

毎日、
本当に感謝!!

そんな彼ら彼女らの芝居への愛を無駄にしない為にも、出演している俺らには、面白い舞台をつくりあげる義務がある。

そしていつか彼ら彼女らも舞台に立つ日が来るの
だろう。

新入りの時代って、おそらくどんな世界でも辛い事の方が多いだろう。

芝居もそうだ。

個人的な経験で言えば、ほぼ「ぺしゃんこ」にされ
かけた。

要は芝居が下手だったから、演出や先輩方が下手だよと指摘してただけなんだろうけど、その伝え方が独特
かつ異常に毒気が強かったため、我ながらビックリするほど自尊心がえぐれた。

自分の同期は他に4人居た。
4人ともそれぞれ面白い持ち味があった。
自分が一番特徴に欠ける気がした。

稽古場で「糞転がし」の“糞”のように、いいように転が
されながら、笑わすのではなく「笑われる」日々の中で、同期はいつの間にか居なくなっていた。

自分にはその発想が欠けていた。

ムキになっていた。

空き缶のように簡単にぺしゃんこにされてたまるか!
こちとら炭酸パンパンじゃボケ!なめんなよ馬鹿
ちくしょうめと、内心いつもイラついていた。

下手くそじゃ何もできない。

何十年かかっても、えぐれた自尊心は必ず取り戻すと決めていた。

戦いだ。

自分はそんな考え方しかできない。

同期の4人と比して特徴に欠けると思っていたが、
「執念深い。負けず嫌い。」
という特徴くらいはあったらしい。

自尊心がえぐれても、筋肉同様、取り戻した時には
以前より太くたくましくなっている。

早々に見切りをつけて新天地を求めた同期メンバー達と、小さな自尊心をスルーできなかった自分。

どちらの選択が正解だったのかは死ぬまで
分からない。

ともかく自分の場合、
後年、演技の面白さ深さ難しさを腹の底から実感した。
そして「不惑」の今、
自分の人生と向き合う気概と自信を有している。

なら、結果オーライなんじゃなかろうか。
他の道もあっただろうけど。

ま、脇道に逸れてしまったが、ともかく新入り時代は
辛い事も多いだろうよという話。

『石の上にも三年』という言葉があるが、あながち
嘘じゃないと思う。

続けなきゃ分からない事って、芸の世界には有る。

器用に世の中を游ぐのも有りだが、愚直に求め続けるのも又面白い人生だと思う。

若手・研修生の場合、
せっかく魔物に手を出してしまったのなら、
一度は芝居の楽しさにバチバチ触れてハマッてイッちゃえるといいねと、爪の先までハマッちゃった経験者は思う。

自分だけが不遇だと感じてしまう事も時にはあるかもしれないが、『役者はクサっちゃぁおしまいよ。』

演技や演出って、結局その人の「人間力」がにじみ出てしまうと思う。

大変だろうけど楽しくやる。

10年後の自分の芸への肥やしだと思って、悩み苦しみ戦う。

毎日、
ファイト!!

以上、やけに長くなりましたが稽古場日誌でした。

あ、ルーマニア山の手事情社公演、相当頑張って
きまっせ。


三村 聡

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