14/01/27

ドン・ジュアン

『画竜点睛』

舞台は観客の視線にさらされて初めて本当の作品になるのだとつくづく思う。

ど緊張で舞台に向かい観客の目線や呼吸を肌で感じた時、今まで稽古してきたことに自信を持てるようになったり、逆に自分の至らなさに失望することは多々ある。

終演後、お客様の感想や激励の言葉に感激し、ありがたいなといつも感謝の気持ちでいっぱいになる。

それも理由のひとつ。

舞台に立った瞬間、今まで想像もしなかった感覚が身体じゅうを駆け巡ることがある。
たくさん稽古を積み重ねてきたのに稽古場では味わえない感覚がぱっと開かれる事がある。
扉がさーっと開いていく感覚。
なんとも言えない感覚。
言葉にはなかなかできないのだが、もしかしたら、作品の背後にある大きな魂みたいなものがあって、それを感じているということなのだろうか。
そういう時は観客も一緒になって感じているものだ。

舞台芸術にしか味わうことのできない瞬間だ。
観客の目が舞台を導いてくれるのだ。

「ドン・ジュアン」はもっと沢山の人に観てもらいたい作品だと確信している。

今日は休演日。
山の手の公演にしては珍しいスケジュール。
出演者達はしばし休憩をとって明日また劇場へ向かう。

後半戦、皆様の御来場心からお待ちしております。

岩淵 吉能

14/01/23

ドン・ジュアン

『偶然か必然か』

ドン・ジュアンはロードムービーの様な戯曲です。

ドン・ジュアンとスガナレルは何処かにむかって歩いている。目的はよくわからない。
その道中起こる様々な出来事が物語になっています。

最初この戯曲を読んだ時、何が言いたいのかよく分かりませんでしたが
「ああ、こりゃダーツの旅なんだ。たまたまの出会いを戯曲化したものなのね。」
に落ち着きました。

私もたまに旅行にいくが、道中様々な人達と出会う。
トラブルに会う事もある、嫌な反面ワクワクする。
せっかくだからそこに何かしらの意味や運命を求めたがる。そうしないと自分である必然性が弱まるから。
ただ後々考えるとその出会いはただの偶然だった事がほとんど。
お決まりの文句「僕達が出会ったのは運命だったんだよ。」は「たまたまだったんだよ。」に鮮やかに変換出来る。

演劇だってそんな大したものじゃない。でもごくたまに人の運命を変える程の出会いがあります。
その様な偶然を皆さんに与える作品になりますよう。

劇場でお待ちしています。

川村岳

14/01/22

ドン・ジュアン

『開け、ごま!』

《四畳半》に苦戦している。

ご存知の方もいると思うが、これは山の手事情社独自の表現方法で、少しの動きだけでとても複雑な世界を表すことができる。そこに佇んでいるだけでその役の背景が見えてくるような身体の動きが理想だ。とても美しい。

ただ動きの型が決まっているわけではないので、自分で探さなきゃいけない。どれがありでなしか? 決まっているのは「動きを凝縮する」 こと。台詞を手掛かりにして、動作を考案する。と、ここで問題が生じる。人間はある感情に身体が反応して動こうとするのだが、それを忠実になぞると、リアリズムの域を越えない。そしてとてもこじんまりしてしまう。よくある「何か考えているのかもしれないが、見えてこない」 状態だ。

思い切って身体を動かす。しかしタイミングが合わなかったりテンションが低いと蝉の抜け殻みたいに、空っぽになってしまう。「形ばかりが目について何もない」 事態に。

知らない間に、頭は固定概念に縛られていく。腰は屈めるべき、声は張るべきと、やり方の幅を狭めてしまっている。稽古の様子を記録したビデオを見ても、他の人はもっと身体を使ってのびのびとやっているように見える。次回はもっと大胆に動きをかえてみよう。と思ったその翌日、見事に打ち砕かれた。

「そんなにちょこまか動くな。」

私の役は、瀕死の貧者。そりゃあそうだ、大事なことを忘れていた。いや忘れていた訳ではないのだが… 言い訳はやめよう。全身にもっと圧をかけ、でも力まない状態を探す。よし、今度はあそこをあーして… でまた玉砕。

一向に扉は開かない。
どうやら呪文が違うらしい。
もしかしたら扉の位置が違うのかもしれない。早くしないと幕が開く!
いっそダイナマイトで爆破したいが、そんな便利なものはない。足掻くしかない、足掻くしかないんだ。

三井穂高






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