14/03/19
『ヘッダ・ガブラー』を楽しむために/作家・イプセン、どんな人?
「ヘッダ・ガブラー」以外にもたくさんの戯曲を書いたイプセン。その作品たちは世界各国で上演されています。イプセンの人生とは?
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1828年3月20日 ヘンリック・ヨーハン・イプセン生まれる。ロシアのトルストイと同い年。この頃のノルウェーは、ナポレオン戦争を切り抜け、「ノルウェー銀行」ができ、経済危機を克服して未来へ羽ばたこうとしている時代であった。
1834年(6歳)一家が経済破綻。父は乱暴になり、母はどんどん無口で陰険な女になっていった。自分の世界に閉じこもるようになるイプセン。小さな小屋で、本、絵具と人形が友達だった。
1846年(18歳)この頃には、すでにあの髭スタイルを確立していた。引っ越しから二年たっても友達は皆無であったらしい。また女中を妊娠させその後養育費を払い続けることに。
1849年(21歳)人の助けをかりて初めての著書『カティリーナ』を自費出版。晩年には1万部即完売となるイプセンだが、この時は250部作るも売れたのはたった40部だけであった。しかし彼はめげなかった。
1851年(23歳)ノルウェー劇場の座付き作家になる。しかし公演は失敗の連続。演出経験のない演出家の演出補佐もしなければならず、劇作家と演出家の二足の草鞋を履く生活に。就任直後の劇場の状態は最低。お金もない、俳優もいない。
1861年(33歳)イプセン病気になる。劇作家の自分と、劇場の経営を考えなければならない現状に挟まれ、仕事が適当になる。新聞にも批判され、精神的な病気になった。夜中に溝にハマって寝ていた事も。
1862年(34歳)ノルウェー劇場閉鎖。妻子抱えた失業者イプセンの誕生。
1864年(36歳)ノルウェー出発。長い外国生活の始まり。
1866年(38歳)『ブラン』発売1250部の初版売り切れる。スカンジナヴィア中にすさまじい反響を呼んだ。ストリンドベリが『ブラン』をよんで『自由思想』書くに至った。
1867年(39歳)『ペール・ギュント』発売、大ヒット。そして、ドレステンへ。お金がなく、妻や子に自身で絵を描いた模倣紙幣をプレゼントしていたらしい。イプセンのやる気が無い時も妻が筆をとらせ、毎日机に向かわせた。
1879年(51歳)『人形の家』出版。「現代劇に爆弾を投じたようなもの。」と評価される。世界的に有名に。この頃のイプセンのホテルには観光客や芸術家が訪ねて来るようになり、ムンクもその一人であったとか。
1881年(53歳)『幽霊』刊行。余りにも陰鬱で、反モラル的とも言える作品のため、劇場は上演拒否。非難の声を巻き起こす。しかし、10年も経たぬうちにドイツやフランスの近代劇運動で真っ先にとりあげられ、先見の目が伺える。初演はシカゴ。
1890年(62歳)『ヘッダガブラー』出版。イプセンの半面が登場人物に反映されている。特にレーヴボォルクはイプセンの空しい思いが反映している。主役のヘッダ・ガブラーは今だに世界の女優を魅了してやまない、非常に魅惑的な女性像である。
1899年(71歳)『私達死んだ者が目覚めたら』。イプセン最後の作品。結婚生活にも長い外国滞在から帰って来たノルウェーにも、自分自身の芸術にも安定が見いだせない老年の芸術家という、71歳のイプセン自分に下した審判が描かれていると言われる。
1906年5月23日 午前2時半、78歳で死去。